※この本に関連して西部邁『保守思想のための39章』の書評を書きました。
今話題の新刊、百田尚樹さんの『日本国紀』を読んだのでレビューします。
一言で言うと、正直、この本から新しい何かを学ぶことはできませんでした。
著者の基本的な主張は典型的なネット右翼という感じで、目新しさを感じるものではありません。
あるとすれば、一応「日本通史」という形式を採っているので、ネット右翼的視点から日本史を描くという意味では新しいのでしょうか?
しかしそれくらいでしょう。
ですので、私はこの記事で逐一「揚げ足取り」はしないことにします。
むしろ、私たちがこの本から何か学ぶとするなら、メタ的な視点を持つ必要があります。
つまり、内容自体ではなく「なぜ著者はこんなことを殊更に採り上げたのか?」に注目することが大切です。
それに対する答えとして、「著者がそう思っているからそう書いてるんだ!」というのも1つの正解です。
でも、読み通してみても、私には著者が熱意を持って本気でこの本を書いたとは思えませんでした。なぜなら、ほとんどの記述がネット情報の焼き増しのような使い古されたもので、著者の個性を感じさせる箇所が少ないからです。
(飛行機・船は好きなのかなと思いましたが)
ただその中でも「特別な意図」を感じるような部分もところどころあります。
この記事では、
1.「『日本国紀』の平凡な点」を大まかにおさらいしてから、
2.「この本が書かれた理由」として何が考えられるのかを読み取っていきたいと思います。
『日本国紀』の平凡な点――著者の基本的な主張
・天皇礼賛(なのに大正天皇飛ばし)
・中韓批判
・メディア批判
・自衛戦争論
・大東亜解放論
・戦後安保肯定
・改憲(押し付け憲法論)
・反共
こういった単語を挙げていけば本書の内容が大体想像できると思います。
しかも、恐らくあなたの想像した以上の内容は1つも出てきません。
例えば「メディア批判」の項で何が槍玉に挙げられると思いますか?
やっぱりまずは朝日新聞ですよね?
「従軍慰安婦捏造」「サンゴ礁損傷自作自演事件」「戦前戦中は戦争を煽り、戦後は反日で足を引っ張る」etc…
私は子供の頃からネットに入り浸りでしたので、もうこんな論調は耳にタコができるほど聞かされてきました。
なので、「またこれ?」という感想しか持ちませんし、それ以上の「新事実」は特に出てきません。
すでにネットで支持されているような無難な論をまとめて、日本史の形につなぎあわせているという印象です。
ネット右翼が一部のネットにおけるアングラで「ラディカル」な存在だった時代もありました。
しかしスマホやSNSを誰もが利用するようになり、ネット右翼がかなりの数の一般人にも受け入れられるようになりました。
(データがあるわけではありませんが、最近の地上波が「日本バンザイ」の番組を組むことが多くなったのは1つの証拠と言ってもいいのではないでしょうか?)
「いままでのネット右翼の総まとめ」のような『日本国紀』が出版されたのも、1つの時代の区切りかもしれません。
「まとめ」だからこそ、いままでの主張以上の「ラディカルな保守」を唱える必要がなかったんだと思います。
著者は作家として売れていますし、NHKの経営委員会に所属した経験もあるなど、社会的地位や発言の説得力はすでに獲得しています。
その立場があれば、「過激すぎる」という危険を犯すまでもなく、「まとめ本」で十分評判を得られるでしょう。
であれば、上記のような平凡な主張を取り上げる必要はないように思います。
ただの「ネット右翼」でない点
しかし、この本の一部には必ずしも普通のネット右翼っぽくない記述も含まれています。
それも、どうでもいい内容ではなく特定のイデオロギーを感じさせるものです。
ネット右翼の「これから」をさりげなく提示しているように私は感じます。
「日本は昔から民主主義」論
以下は、2018年10月29日の衆院本会議における、安倍晋三さんの所信表明演説に対する稲田朋美さんの質問の一部です。
ことしは明治維新百五十年、明治の精神ともいうべき五カ条の御誓文は、松平春嶽、横井小楠、由利公正などによる改革の集大成ですが、広く会議を興し、万機公論に決すべし、更に歴史をさかのぼれば、聖徳太子の和をもってたっとしとなすという多数な意見の尊重と徹底した議論による決定という民主主義の基本は、我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません。
「なかなかおもしろいことをいう人だな・・・」
というのがこれを見たときの私の率直な感想でした。
しかし、今回『日本国紀』を読んでいて、全く同じことが書かれているのには驚きました。
(註:十七条憲法について)まず「仲良くすることが何よりも大切で、争いごとは良くない」といっているのだ。この後、「何事も話し合いで決めよう」と続く。これは言い換えれば「民主主義」である。世界の国のほとんどが専制独裁国であった時代に、「争うことなく、話し合いで決めよう」ということを第一義に置いた憲法というのは、世界的にも珍しい画期的なものであったといえる。
(註:五箇条の御誓文の最初の二条について)ここには独裁的な姿勢は皆無である。まさに近代的民主主義の精神に満ち溢れている。
それだけでも十分な驚きだが、私は、千二百年以上前に聖徳太子が作ったといわれる「十七条憲法」との類似性に唸らされる。すなわち「和を以て貴しと為し」「上やわらぎ下むつびて」というくだりである。日本は古来、専制君主制ではなく、政治は皆で行っていくのが理想と考えてきた国なのである。
これに加えて「吉宗による目安箱の設置(p.203)」「阿部正弘による意見の募集(p.232)」なども言及されています。
私としては、この点にかなり力を入れているなという印象を受けます。
単なる過激な右翼だったら、わざわざ「前提としての民主主義」を受け入れる必要はありません。
「天皇を頂点とするピラミッド」で済む話です。
しかし、現代の国際社会の中で民主主義を否定するわけにはいきません。
だから「(戻るべき)過去にも民主主義はあった」という証拠を見つけてくる必要があるのです。
そう言わざるを得ないあたり、著者は「地位」のある方だなと思います。
金融緩和・インフレ推進
私が一番引っかかったのはこの点です。
特に江戸時代についての記述で、金融緩和・インフレの利点についてかなり書いています。
この時、改鋳前の一両と改鋳後の一両の貨幣としての価値は変わらず、むしろ市中に多くの貨幣が出回ったため、インフレになったものの景気が良くなった。これは現代の経済用語でいえば、「金融緩和政策」である。
「享保の改革」で徹底した緊縮策をとっていた吉宗だが、一向に景気が回復しない状況に困り果て、(中略)金の含有量を大幅に減らした貨幣(元文小判)を発行している。つまり綱吉と同じ金融緩和政策を行ったわけである。これは「元文の改鋳」と呼ばれている。これによりようやく江戸の町の景気は蘇った。
全文を通して、「金融緩和 => 好景気」というシナリオは何度も出てきます。
1.元禄の改鋳(p.180)
2.元文の改鋳(p.204)
3.文政の改鋳――改鋳には触れられていないが、「将軍家斉も贅沢三昧な生活を送り、社会も再び活性化する」(p.211)とある
4.昭和恐慌に対する犬養・高橋の政策(p.350)
金融緩和だけでなく、「積極財政」も含めればさらに数は増えます(尾張宗春(p.204)、信長(p.140))。
逆に、緊縮政策やデフレに好意的な記述は1つもありませんし、行き過ぎたインフレによるデメリットにも一切触れられていません(見落としていたらすみません)。
著者が言うほど経済は単純ではないと思いますが、そういう細かいことは問題ではありません。
なぜ「金融緩和・インフレ」をここまで推すのでしょうか?
理由をいくら考えても、私には想像も及びません。
俗物の復権――反エリート
この本は、全編を通して「理想主義的エリート」を嫌う描写が多いです。
例えば、あの松平定信についてはこんなふうに書いています。
理想主義者で潔癖症の定信は、町人の文化にまで口を出し、贅沢品を取り締まり、公衆浴場での混浴も禁止した。また洒落本や黄表紙の内容は風紀を乱すものとして、作者や版元を処罰した。
定信の理想主義は現実とは乖離したもので(後略)
時の将軍は家斉で、著者によると「俗物将軍」というあだ名があったそうです。
経済の停滞は「理想主義者」の定信が邪魔をしていたからであり、俗物将軍の家斉が再び贅沢をできるようになると「社会も再び活性化」したということです。
また、対中融和的な「幣原外交」を行ったことで有名な幣原喜重郎に対する評価はこうです。
幣原という人物は、かつてワシントン会議においてアメリカの策略に乗って日英同盟を破棄した張本人であり、満州や中国で日本人居留民が中国人からたびたび嫌がらせを受けても、「自重するように」と言い続けた外相(当時)である
余談だが、自身が男爵であった幣原喜重郎首相は、「存命中に限り、華族でいられる」という内容の条項を入れることにこだわったといわれるが、議会によって拒否された。
こういった「理想主義者」たちに対して、「現実主義者」である田沼意次への評価はかなり高いです。
「傑物・田沼意次」の項にはこんなことが書いてあります。
もし意次が失脚せず、彼の経済政策をさらに積極的に推し進めていれば、当時の経済は飛躍的に発展していた可能性が高い。そうなると日本は世界に先駆けて資本主義時代に入っていたかもしれない。
彼への処分の厳しさから、「いかに彼が既存勢力の幕閣たちから嫌われていたかがうかがえる」(p.208)らしいです。
「理想主義的リベラル」に対する反感はネット右翼の間でも元々見られたものだと思いますし、単なるイデオロギー上の敵に対する攻撃とみなすこともできます。
しかし敢えてここで採り上げたのは、世界的に政治が「既存の保守・革新」の対立の枠に収まらなくなってきているからです。
アメリカでドナルド・トランプが当選したのは顕著な例です。
彼は確かに「保守」だと思いますが、政治経験があるわけでもなく、所属している共和党の主流ではありません。
彼の主張も「既得権益層」に対する攻撃であり、必ずしも敵はリベラル=民主党ではありません。
他の国々でも同様に、より過激な「第三の選択肢」が選ばれつつあります。
松平定信はリベラルか?
田沼意次は保守か?
こんな問いがバカバカしいのと同じように、これからは単純な左右の争いではなくなると思います。以前は政治家の権威に対する恐れ・尊敬が少しはあったかもしれませんが、左右両方のエリートに対する信頼はすでに失墜しています。
これからはむしろ「目先の利益」や「感情」をすばやく満たしてくれるようなインスタントな政治家が選ばれるはずです。
田沼のような「現実的」な政治家や、金融緩和・積極財政のような「効果的」な政策がこの本で高評価を得ているのも、いまの社会の余裕のなさを象徴しているように思います。
まとめ
繰り返しになりますが、この本の内容に細かく反論をしても、そこからは何も生まれません。
むしろ「何故著者はこんなことを書くのか?」「何故この本がこんなに売れるのか?」ということに関心を持つべきだと思い、この記事を書きました。