先日、百田尚樹さんの『日本国紀』の書評を書きました。
『日本国紀』は典型的なネット右翼思想の総まとめである、というのが私の意見でした。
しかし、それでは排他的・破滅的なネット右翼や街宣右翼などとは違った、正道の保守思想とはどういうものなのでしょうか?
西部邁さんの『保守思想のための39章』は、歴史に深く根ざした「冷静な保守思想」のアイデアを私たちに提供してくれます。
保守思想とは何なのか?
この本は、
Q. 保守思想はどういうものですか?
A. 保守思想とは○○です。要素としては△△と□□と☆☆があり・・・
というような分かりやすい構成にはなっていません。
むしろ39章を費やして、個別具体的な諸問題について、保守思想がどのように対処できるかを逐一考察していく形式を採っています。
著者がそうした検証方法を採用した理由の1つとして、保守思想が歴史的に「思想の論理的体系化を拒もうとしてきた」(p.72)という事実があるからと考えられます。
保守思想は、その歴史的経緯としては、「革命」におけるような近代主義の異常なアクション(作用)にたいする、リアクション(反作用つまり反動)として表出されることが多かった。それゆえ、近代主義の見せつける抽象的理念性に反発することが多かった。
つまり、保守思想は独立のイデオロギーなのではなく、イデオロギーに対する反発なのです。
だから保守思想は「○○主義」のような抽象的な論理体系を組み上げることには興味がなく、「具体的現実性に執着」(p.72)してきたのです。
では、歴史的にどんな「アクション」に対する「リアクション」が起こったのでしょうか?
保守思想家として、著者は以下の3人をよく参照します。
- フランス革命に対するバーク(p.55)
- アメリカン・デモクラシーに対するトクヴィル(p.55)
- 「大衆の反逆」に対するオルテガ(p.201)
どれも近代○○主義に対する、歴史と伝統に立脚した立場からのカウンターであると言えます。
しかし、3人の説はやはり別々のものあり、それぞれ個別の社会病理に対する「処方箋」として書かれたものです。
同様に、この『保守思想のための39章』も日本という背景を持った著者によって書かれた、日本社会への「処方箋」として読むことができると思います。
ネット右翼に典型的な考え方は、「保守思想」によってどのように正されるべきでしょうか?
ネット右翼は「保守」か?
ネット右翼は「保守」を自称しているだけあって、確かに「先祖」や「伝統」を重んじているような発言をします。
しかし、彼らのいう「伝統」とは何なんでしょうか?
何年経てば「習慣」が「慣習」に変わり、「伝統」と「歴史」が生まれるのでしょうか?
一度できた「伝統」が別の「伝統」に変わることはないのでしょうか?
その場合、たくさんあるうちのどの「伝統」を選ぶべきなのでしょうか?
ネット右翼はそういった当たり前の疑問を無視して、特定のイデオロギーに準じて自分たちに都合のいい「伝統」を選び出し(または作り上げ)ます。
上に述べた「保守思想」がイデオロギーではなく、それに対するリアクションだったいうことを思い出してください。
「ナショナリズム」というイデオロギーを信奉している時点で、ネット右翼は著者のいう「保守思想」を持っていないことがわかります。
「死者たちのデモクラシー」を尊重せよ
ネット右翼は基本的にアメリカ式民主主義を支持していると言っていいでしょう。
逆に「天皇大権」なんて考えている極右層はまず大衆から支持を得られないため、社会的な脅威になることもありません。
では、「先祖」と「伝統」を重んじるネット右翼的勢力が選挙で伸張することは「保守」の立場から喜ばしいことでしょうか?
おそらくNOでしょう。
では、なぜNOというべきでしょうか?
西部邁さんはバークの提示した「死者たちの民衆政治」という概念を紹介します。
死者たちのデモクラシーとは、過去の人々が残し伝え、現在の人々がおおよそ共通に所有している感覚を大事として、政治を(つまり人々の集団にたいする運営を)行えということである。そうした常識を、古い日本語では「輿論」といった。(中略)
そしてどんな政治も――成熟を享受したいのならば――根本において輿論に従うべきであると保守思想は考えてきた。それは、過去の死者たちが成功と失敗を通じて学んだ「平衡の叡智」は、庶民の常識にこそ貯えられている、とみなしてのことである。
しかし、これは「多数派の大衆が全てを掌握していい」という意味ではありません。
著者は「庶民の輿論」と「大衆の世論」を対置して考えます。
「世論」は「生者たちの(死者のことを無視した)意見」(p.143)であり、それを作り出すのは「庶民」ではなく「大衆」です。
近代の進行とともに庶民が姿を消しはじめた。そのかわりに大衆が登場した。つまり、近代主義者(の知識人)がばらまく「信なき疑」の知識の定型化された類のものを(とりわけマスメディアを通じて)身につけた「近代的大衆」が巨姿を現わしはじめたのである。
ネット右翼のような典型的な大衆は、明らかに死者たちを冒涜しています。
ネットで真実を知ったつもりの彼らは、「輿論」のような現実と伝統に立脚した「平衡の叡智」なんて持ち合わせていません。
祖父の世代を勝手に神格化した挙げ句、父親世代を「老害」と切り捨てます。
そうした態度は歴史から切り離された「大衆」の姿そのものであり、祖先から続く国を私物化している、と保守思想では考えることができるでしょう。
他者の故郷を愛せ
当然ですが、「保守思想」は郷土を愛することを止めるものではありません。
しかし、排外主義は「保守思想の忌みするところ」(p.85)です。
自分の故郷の隣には他者によって想起される他者の故郷がある、と保守思想はわきまえている。他郷への思慮を欠いた愛郷心は保守思想のものではない。だから「愛国心はならず者の最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)という場合もありうると保守思想は承知している。
この感覚は当然ではないでしょうか?
ネット右翼は、
国連や人権団体が日本の「前近代性」を指摘すると「内政干渉だ」とわめく割には、
中国や韓国の食文化を平気でバカにしたりします。
これはどの世代にも共通の、まさに「輿論」の範疇でしょう。
サミュエル・ジョンソンの言もまさに的を射ていると思います。
反共・親米の矛盾に気づけ
「反共・親米」はネット右翼に限らず大方の日本人に共通する思想だと思います。
ソ連崩壊によって西側の自由・資本主義陣営が「勝利」したものだと見なされてきましたし、資本主義・民主主義の問題点がこれほど露呈しているにも関わらず、「現実的には民主主義一択」という論調が基本です。
(私も個人的にはそう考えていますが)
しかし著者によると、ソ連の社会主義とアメリカの個人主義は、近代西欧が産み落とした「二卵性双生児」だということです。
ソ連は歴史破壊を価値とし、アメリカは歴史不在を現実としていた。いずれにせよ、社会の根底に歴史の要素が欠如もしくは不足しているという点で、両者は類似している。歴史から切り離されていればこそ、両者とも技術的合理によって社会を設計したり社会を作動させようとしたのである。
つまり、どちらのイデオロギーを選んでも、完全に受容してしまえば歴史を踏みにじる結果になることは変わらないのです。
ネット右翼は60・70年代の学生運動や沖縄の基地反対デモを「売国」と呼び、自分たちは「現実的」な観点からアメリカ式民主主義や米軍基地に賛成します。
もちろん、それと同時に「GHQ洗脳論」を唱えて、その前に戻ろうということを盛んに言っていますし、17条憲法などを持ち出して「日本にも昔から民主主義があった」などとも主張しています。
著者の意見としても、日本には「固有の形態での自由・民主が(どちらかといえば存分に)あった」(p.24)そうです。
それは「敗戦のあと、その自由・民主にイデオロギー的な粉飾がほどこされ」、「自由と民主を過剰に追求するのが理想とされ」(pp.24-5)ました。
この意味で「敗戦前にもどろう」というネット右翼の主張は「保守思想」として正しいように見えます。
しかし、その日本的自由・民主を取り戻すためには、歴史と伝統から「輿論」を掴み取ることのできる民衆と政治家が必要なはずです。
すでにアメリカ式にどっぷりと浸かって大衆化し、歴史と伝統を捨てたネット右翼にその資格があるでしょうか?
すでに日本の状況は、著者の下記の描写の通りになっていると言えます。
ソ連の崩壊によって(個人的)自由民主主義はたしかに勝利した。しかしその勝利はリベラル・デモクラシー(自由民主主義)の思想としての優越ということとは関係がない。歴史・慣習・伝統に基礎づけられない自由民主主義はリバーティニズム(放縦主義)に堕ち、また歴史・慣習・伝統から遊離した世論は民主主義をオクロクラシー(衆愚の支配)へと落下させる。